第17回カイロ国際実験演劇祭(2005年9月20日~30日開催)に「Parachute Woman」をもって参加するため、エジプトに赴いた。ARICA初の海外公演である。
エジプト政府主催で毎年行われる中東最大の演劇祭で、この年は世界45カ国(欧米・アジア35カ国、中東10カ国)から招待を受けた62のカンパニー、地元エジプトの23のカンパニー、計85作品がラインアップされ、連日カイロ市内の劇場を中心に10日間に渡り上演された。
この公演旅行に参加したのは、演出、制作、ミュージシャン、パフォーマー、映像のARICAメンバー5人に、舞台監督、音響、照明のテクニカルスタッフ3人、それに旅費自己負担の同行組が加わり、大旅行団になった。
まずは航空券の確保から苦難の旅が始まった。
この演劇祭事務局はなかなか連絡が取れず、本当に行けるのかどうか、日程などやっと確定したのが3ヶ月前の6月である。
どの航空会社もすでに満席であせり狂う。8月に入ってやっと全員のチケットを入手できた。7月にエジプトでテロ事件が発生しキャンセルが相次いだおかげである。恐ろしく時間のかかる大韓航空(ソウル、ドバイ経由)とエミレーツ航空(ドバイ経由10時間待ち)であった。
先発隊がドバイ空港でトランジット待ちにうんざりしている時、たまたま目をやったモニターに、何と私たちの翌日に成田を出発したはずの後発隊が、今まさにドバイにチェックインしている姿が映し出されているではないか。予想だにしていなかった遭遇に驚き、何十年ぶりかに巡り会ったかのごとく、一瞬の逢瀬を喜び合った。
冷静に考えれば、これは予測可能なことだったのだろう。出発間際は準備に追いまくられ、だれもエアチケットをチェックする余裕がなかった、ということだ。
次なる難題は"ミシン"。
「Parachute Woman」という作品は、ARICAメンバー倉石信乃の書き下ろしだが、簡単に言ってしまえば、ひとりの女工がミシンでパラシュートを縫い上げる労働過程に焦点を当てたもの。当然舞台の主役はミシン。それも昭和の前半によく見かけた足踏み式。舞台装置の飾りとしてではなく、実際に踏む、というより踏みまくる。古くても高性能のものでないといけない。
カイロで2ヶ月にわたり探してもらったが、どうしても見つからなかった。ということは日本から持参しなくてはならないということだ。
これまでの国内公演では、演出藤田さんのお母さんのミシンを公演のたびに借りに行っていた。母上は人形作家で、現役使用のミシンだったが、そんな貴重品をまさか海外まで持ち出す訳にはゆかない。
幸運なことに近所の古道具ニコニコ堂で、すばらしいミシンを見つけた。戦前に作られた鈍く光る黒い鉄の塊りで、速く踏むと機関銃のような音がする。しかし本体はズシリと重く、総重量60キロ。
さてこれをどうやってカイロに運ぶか。船便では心もとないし、航空便の値段はとんでもないし、機内預けは重量オーバーの超過料金やトランジットの際のドロップアウト、破損などの心配がある。結局手に持っていれば一番安全でお金もかからないということで、ミシンを分解し、みんなで分担して機内持ち込みすることにした。
舞台監督鈴木康郎が慎重に解体。古い部品の一つ一つが貴重品で、日本でももはや調達不可能。しかし再度現地で組み立てるのでネジ一本の紛失も許されず、託された人の責任は重大である。みんなで押し付けあった。
その他にもエレクトリック・コントラバスやら音響機材やら回転椅子やら小道具やらと、荷物にまみれての成田出発となる。
果たしてセキュリティチェックを強化している成田の手荷物検査を突破できるかどうか。怪しい空気のARICA男子たちに砲弾のようなミシンの本体は任せられず、鉄の塊り20キロを大型リュックに押し込み、私が担いだ。大きな賭けをしているようで足が震えたが、結局X線を通るたびに「ミシンだミシンだ」と笑い飛ばされた。
現地入りして、不確定だったいろいろなことがやっと判明した。
公演日こそこちらの要望通りだったが、仕込みに関しては前々日から入りたいと言ってあったのに何と当日の朝入り。公演会場もあれだけ強く指定したのに別会場に。製作依頼しておいた舞台装置は当然手付かず。
とんでもない実験演劇祭だ。「難題をふっかけて、どこまでできるか、私たちを実験している演劇祭だ」などとうそぶいていたのだが、うれしいこともあった。コンペ対象作品に上げられていたことだ。
ここの演劇祭はコンペティション形式になっている。事務局が事前に参加85作品のビデオ審査をし、30作品を選んでコンペ対象とする。世界各国から招聘された11人の審査員が、現地カイロでこの30の実際の上演を観た上で選考し、最終日に受賞者を発表することになっている。
公演会場は大問題だ。
「Parachute Woman」は劇場で上演したことがなかった。
六本木のライブハウス「スーパーデラックス」や桐生のノコギリ屋根の元織物工場など、客席と舞台がフラットな場所のために作った作品で、奥にミシンを置きその手前に5mのアイロン台をセット、その周囲を取り囲むように3方向から観てもらうという、かなり特殊な舞台・客席の設営である。客席から舞台を見上げるプロセニアムの劇場では、ほとんどのシーンが見えない。
カイロ公演に向けては、私たちは特に劇場選びに苦心していた。少ないカイロの劇場情報をかき集め、やっと一箇所だけ上演可能な会場を見つけた。演劇祭事務局にはずいぶん前からその会場での上演を強く要望していたのに、無視されたのだ。
ホテルチェックインもそこそこに、藤田さんと制作たらちゃんと私は、カイロの国際交流基金事務所に駆けつけた。
演劇祭事務局が指定してきたEl Hanager(私たち通称ハナゲ)劇場の図面を見せてもらったが、やはり「Parachute Woman」を上演できるスペースではない。私たちが予定していた会場は別の演目が組まれている。交流基金の担当宮本さんに相談するが、変更は不可能のようだ。途方に暮れる。
私はやっとの思いでカイロに辿り着いたのにと感極まり、「ハナゲはいやだ」と泣き出してしまった。
藤田さんとたらちゃんは、怒っている私には慣れているものの泣いた私は始めてで、戸惑っている様子。初対面の宮本さんも見てはいけないものを見てしまったとオロオロ。自分が情けないやら恥ずかしいやら、でも引っ込みがつかない。
しばらく気まずい空気が続いたが、藤田さんたらちゃんは何とかしなければと立ち上がった。演劇祭の事務局長に直談判しようと、宮本さんに連絡を取ってもらい、会いに行くことにする。(一口に「会いに行く」と言っても、着いたばかりの異国の地、容易なことではない。地名も判読できず、タクシーはアラブ語、料金もわからない。カイロでは最後まで、タクシーに乗る度に異常なエネルギーを要した。)
訪ね当てた事務局のドアの前には数人の列ができていた。私たち同様クレームを言いに来ているのだ。あるグループは交渉が成立せず、今回の公演をキャンセルにしていた。
重苦しい気配の部屋に入って行く。事務局長は「「Parachute Woman」のDVDを見た上で、上演するのに一番いい会場を選んだつもりだ、文句があるなら今すぐ劇場を見に行って、もう一度来い」と自信たっぷりに言い放った。
ホテルの玄関で到着したばかりの後発隊のテクニカルスタッフを捕まえ、一緒に劇場に直行する。
El Hanager劇場はすばらしい劇場だった。
ロビーに足を踏み入れただけですぐに分かった。劇場が息づいている。立派とは言えない、むしろ簡素で古い。しかし細やかな神経が行き届いている。後に知ったことだが、カイロ市でこの劇場は先鋭的な作品の上演会場になっていて、これまでにもピーターブルックをはじめ世界中の著名な劇団を引き受けていた。しかし、過去の数々の名舞台を大事にしながらもひけらかすことなく、自由な空気が漂っていた。
客席は300ほどであったろうか、とにかく舞台上が広い。
舞台奥の背景になっている大黒の後ろに回った瞬間、幻惑を覚えた。
過去に使われていた古い客席がこちらを向いてひっそりと眠っていたのだ。図面にはなかったことだ。私はいつしかこの舞台に魅了され始めていた。
演出家も気に入ったようだ。ただし通常の客席の使い方では、私たちの上演はほとんど見えない。藤田さんは「広い舞台の上に客席を組む」と即座に決断した。しかし観客が少数(100人ほど)に限定されてしまう。途中で反対意見にもあったが、彼は自分の作品提示法を最後まで死守した。予約システムがなかったからか、劇場側も寛容だった。
いい劇場というのは、そこにいるスタッフがいいということだ。優秀なステージマネジャー、照明、音響の人たち、とても気持ちのいいナイスガイ揃いだった。
「公演当日朝の劇場入りでは準備が間に合わない」旨をチーフに伝えると、前日の他劇団の本番終了直後から劇場を私たちに明け渡してくれることになり、徹夜仕込みも手伝うと言ってくれた。
私たちが強く主張していた劇場が近くにあったので、そこも下見した。できたばかりのきれいな劇場で、最新鋭の設備も整い、客席も自由に組め、図面通り確かに使い勝ってはよさそうだったが、私たちは全員一致でハナゲを選択した。
劇場を出ると深夜になっていた。成田を出発したのがずいぶん昔のことのように感じられる。深夜だというのに、お祭のように街は人で溢れかえっていた。猛暑の日中を避けて陽が沈むのを待ち、夕涼みの外出ということのようだ。
ホテルまで30分ほど歩いて帰ることにする。体は疲れ果てているのに足取りは軽い。途中ナイルに架かる橋の上で写真を撮る。みんなの顔が明るい。劇場も決まり仕込みのメドもつき、これで大丈夫という心地だったのだろう。頬を撫ぜる風が気持ちいい。
しかし、実はここまではまだ序の口であった。この後に待ち受けている数々の困難を、誰が予測できただろう。 (続)