「記憶に同化するのか、今との距離を直視するのか。」

荻野哲矢(「CUT IN」21号/2003年11月号)

ローザス「ワンス」10月2日~4日 彩の国さいたま芸術劇場
ARICA 「Parachute Woman version2/桐生ノコギリ屋根工場」9月27日~28日 佐啓産業株式会社本町工場
ジョーン・バエズの歌声に包まれてアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルは一人で踊り続けた。ローザスの『ワンス』はケースマイケルの個人的な記憶への旅、公演パンフレットでの彼女の言葉によれば「内省のオデュッセイア」だが、それはもちろん舞台上でそう見えるという事で、そのようなフィクションを支えているのが、バエズの曲とともに即興的に見えるダンスだ。記憶とは不意に訪れることがあるものだから、即興的に見せることによって舞台上で本当に記憶の中を生きているかのように見えるのだ。時々動きが止まり再びゆるやかに動き始めたり上を見上げたりするダンスは、その場で記憶を喚起し次の動きを決めているような印象を与える。途中でパンツを脱ぐ時もまるで踊っているうちに本当に気分が高揚して思わず脱いでしまったかのように見せる。安易に即興に走らず、即興的に見えるように作品を構成したケースマイケルの芸術家としての厳しさや誠実さは評価したい。だが問題なのは記憶についての彼女の考え方である。彼女のダンスは記憶を思い出すということに対して屈託がない。バエズの曲が突然途絶えてもケースマイケルは踊り続けるし自分で歌ってしまうから、そこで記憶の流れが途切れることはない。作品後半の戦争の映像もたとえ彼女の裸の体にも映し出され、まるで彼女の体に刻印されているように見えるにしても、それは当然の事だが彼女自身の記憶ではなくバエズの反戦運動を示している。ケースマイケルは記憶とは愛すべき身近なもので簡単に思い出せるもののように見せたいようだ。しかし多くの場合、記憶を自由に思い出せるものと感じることができるというのは幸せな誤解に基づいている。『ワンス』は思い出すという行為の安易なイメージを提示しているように見える。軽やかに踊るケースマイケルを見て観客もまた自分の幼少期を思い出し幸福感に包まれるかもしれない。そしてその幸福感は芸術の効用の一つかもしれない。だがそこには記憶に対する懐疑がない。ケースマイケルが演じているのはすでに帰還したオデュッセウスでしかないのだ。
 しかし例えばARICAの『Parachute Woman version2/桐生ノコギリ屋根工場』には記憶という問題に関して別の可能性が見てとれる。実際の織物工場を舞台に一人の女がパラシュートを作るという作品だ。部屋の奥に古いミシンが置いてあり、そこで女はパラシュートにミシンをかけている。舞台上でコントラバスの音が女に作業を促す。ラジオからは男が英語でMrs.Prachuteと呼びかけ命令している。さらにプロジェクターで映し出されたり女が呟いたりする言葉は、女が命令され語られる存在、いわば自らを代表できないサバルタンだということを明らかにする。それは例えば頻繁に登場する「…と言われている」という受動態で、その中の1つが「私たちは連れていかれた/と言われた」という言葉である。女の内的独白のように思われる録音された声が「連れていかれた」といい、舞台上で女を演じている安藤朋子が「と言われた」と続けて言うことで女はアイロニーとしての自己分裂を二重の意味で起こす。一つは演じられている女の内部での分裂であり、もう一つは女と安藤との決定的な分裂、もはや役柄への心理的同一化は不可能になる分裂だ。作品後半で舞台の中心に置かれた巨大なアイロン台でパラシュートにアイロンをかける安藤の迫力は異様で、ほぼ同時に映し出される戦前の映像の中のいわゆる「女工哀史」的な女工とは全く異なるものだった。そもそも安藤はパラシュートを作る工程の全てを自分一人で行なっているのだから、その点でも流れ作業の工場労働とは別のものだ。ここで安藤はもはや昔の「女工」との同一化を一切求めていないように思われる。むしろ焦点を当てられているのは「女工」と安藤の間の時間的差異の方なのだ。しかし同じ工場労働という線上に置かれる「女工」と安藤はかくも違うのだという対照こそが、私たち観客に昔の「女工」への想像力を喚起し、安藤が舞台上で行なっているような身体的な知覚を呼び覚ますのではないだろうか。そしてそのような現在的な想像力も知覚も時間的差異の産物であり、またそれらを感じることが自らの記憶を問い直すことに他ならない。距離のない記憶の安住地ではなく記憶にたどりつくまでの距離に思考を向けること。それはまた安全を保障するパラシュートがその存在の内に地上への激突という可能性をはらんでいる事を認識し、むしろ激突への期待を増幅させるためにこそパラシュートを作り続けるという行為と同じことだ。
 『ワンス』と『Parachute Woman』を分かつものは距離感である。一方にはなく、他方にはある。それは二つの美学の対立なのだ。この選択は社会的な立場の選択である。