ミシン The Mach ine 公演評

武藤大祐(「ダンスワーク」2005年春号)

 コの字型に作られた客席の中央に細長い台が突き出し、正面には机とミシン台、それを囲むようにイントレが組まれて巨大なパラシュートが吊り下がっている。「縫う」「アイロンをかける」などといった機械的な作業・労働をモティーフにしつつ、そこから小さく、時に大きく逸脱する安藤のアクションと、テクストの朗読、映像、猿山が打ち込むコントラバスの鋭い音、そして様々な仕掛けを含んだ舞台装置、こうしたものからなる独特のパフォーマンスである。
 ブレヒトや、ブレヒトについて書かれたベンヤミンのテクストなどが引用され、この女が戦時下の女工であることは了解されるが、行為の具象的な再現と抽象的なイメージへの飛躍があるバランスを維持していて、主題そのものをはっきりとつかまえることは難しい。むしろ観客は「労働」「疎外」などといった主題らしきものの周囲をいつまでもグルグルと旋回することで、舞台で起こっている出来事の相貌を単純化抜きに受け止めることができ、そのことがまた主題をめぐる問いの可能性を流動的なままに留め置くようにさせる、そうした回路が意図的に仕組まれているように思われた。
 そこでともかく目の前で行われていることをよく観察してみるならば、一見「労働」らしきことが黙々と行われていながら、それが奇妙な仕方でズラされていることがわかる。例えばミシン台の周囲にハサミや霧吹きなど、作業に必要な道具がゴムでぶら下がっていて、自らもゴムベルトで台に繋がれている安藤が車輪つきの椅子で行ったり来たりしながら、大きく広げられたパラシュートの布にシュッシュッと霧吹きをやっては離し、反対側の霧吹きをつかんでシュシュッとやっては離し、すると、ちょうど手から離れた霧吹きがゴムの反動で飛んでいく先にトタン板が作りつけてあり、そこに当たってガーンという音を立てる。ガーンいう耳障りな音が鳴った瞬間に、トタン板の存在感と、そこにそれが設置されていることの周到さとがグッと迫り出すのである。安藤の行為はいかにも「労働」に相応しい合理化を施されている。にもかかわらずその合理化は何にも奉仕しておらず、無意味で、むしろ反対に遊戯性を帯びている。アイロンをかける、あるいは電球のスイッチを入れるなどといった、『ミシン』におけるアクションはどれも仮の目的によって動機付けられていながら、その目的性は宙に浮かび、代わりに行為が運動そのものとしての性格を現しているのである。
 ダンスは、運動がどのようにして運動そのものとしてあるのかという問いを立てることがない。ダンスにおける運動の遊戯性は常に自明視されている。しかしながら、ダンスはダンスの中にだけあるのではなく、日常の生活における運動の中に、そして労働における運動の中にすら、成分として含まれている。『ミシン』における運動は、そこにおいて遊戯と労働、目的性と手段性が陣取り合戦を繰り広げるような、未決定な場として投げ出されている。したがってこれは絶対にダンスではないし、ダンスについてのパフォーマンスでもないが、少なくとも遊戯と労働を弁別し、ダンスをダンスとして、労働を労働として同定することの政治性はここにあますところなく示されているのである。