「概念の効用」

高橋宏幸(「図書新聞」2006年11月18日付)

 江古田にあるストアハウスという小さな劇場で毎年「フィジカルシアター・フェスティバル」と銘打たれたフェスティバルが行われている。それは小規模ながらも今年で七回目を数え、毎年日本と世界各国の舞台を幾つか招聘して地道に成果を収めている。このフェスティバルの特色に挙げられるのが、名前にもあるようにコンセプトを掲げていることだ。
 フィジカルシアター、「身体的な演劇」という括りは、そこで上演される演劇が全てその名のもとにあるということを意味しない。実際、今回を含めて過去の作品を振り返っても、ヨーロッパ系に多いパントマイムのような技術を中心としたものから、アジア各国の民族色の強いダンスなど、必ずしもジャンルを創出するための内在的な自意識は連動していない。むしろここでは、フィジカルという概念を単に身体的なものや唯美的に肉体の生々しさを前面に押し出すものではなく、唯物論的なものという意味にまで拡大的に広げて使うことによって、上演される舞台をただ見ているだけでは気づかないコンセプトによって、その舞台に批評的に新しい側面を照射する試みであったといえるのではないだろうか。
 今回上演された舞台の中では、現在注目を集めているパフォーマンス集団であるARICA(アリカ)などは特にその面が強い。彼らの何をもってフィジカルと見なされるのか。それはパフォーマーの安藤朋子の身体のみならず、様々な舞台美術の使い方にある。確かに安藤が見せるわずかのしぐさは即物的に様々な対象物をみせる。たとえば、冒頭で安藤がガムをくちゃくちゃと噛むシーンがあるが、その噛み方によってガムと、ベケットの『わたしじゃない』を髣髴させる唇と歯と顎の一連の動きが際立っていく。その日常の仕草が肥大したようなイメージは、時々安藤が話す台詞によって、そのシチュエーションがどのようなものなのかを理解する手助けが与えられ、その過大さはもはや日常などという言葉に還元されない可笑しさとなる。
 たとえば安藤はキオスクの店員と女綱渡り師という二つの生活をおくっているから、彼女はロープを左右の壁から壁まで張ってキャスターつきの椅子で滑り、埃たつ机を馬鹿でかいはたきで叩いて掃除をしている。その日常生活の中での動きや、身の回りにあるものを舞台美術に使うことは、あまりにも日常の動作やものそれ自体の用途や機能からも脱して、通常のイメージへと回収されないような連鎖を生んでいる。回りにあるのは吊るされた古新聞の束、積み上げられたダンボールの山、天井に大きな水のボトルを設置して蛇口から滴り落ちる水を漏斗を付けた下のペットボトルで受け止めるというのも、それらは日常生活においてどこにでもあるものなのに、すべては際限なく肥大してそれぞれのもつイメージを超えるように構成されている。つまり、その舞台美術のもの性はむろん、もの派やミニマル・アートのものとは決定的に違いARICAの特色となっている。
 日常性の演劇というのは、もはや完全に廃れたが90年代以降、太田省吾の実験性を矮小化するような形で「静かな演劇」として一時流行した。今ではチェルフィッチュが日常こそが過激であるとその代表的な存在となっているが、少なくとも卑小な形をさらに突き詰めることで突破しようとした日常性というものは、このARICAのパフォーマンスを見ると、全く別の方向から舞台に現れているといえるのではないだろうか。ものは還元されることがなく、パフォーマーの手によって常に姿や形を変えて、プロセスとして観客の目の前にある。