LOVE GAME LOVE 公演評

頭上の暗闇からボタボタ降ってくる饅頭を、ひとつ、またひとつと拾っては食うこと、そして羽織のポケットにつっこんで二度と取り出さないこと。あるいは天体観測用の巨大望遠鏡のように大仰なシーソーの上を、全力で疾駆したり、とつぜん停止したりしながら、絶えずヴァランスを失ないつつあるその方形の天秤をおのれの恋のメタファーとみなすこと、そこにしがみついて離れないこと。安藤朋子によって表象されるARICAの血肉と精神は、つねに不器用さの深淵にみずからを置く。極端なやり方で日常から抽出された一連の動作や習性。それらは避けがたくコミカルだ。だからわたしたちは笑う、暗闇に紛れて。けれどもひとしきり笑ったあとから、ある驚愕がわたしたちのすぐうしろから忍び寄って来る――落ちていたものを拾ってわがものとしたり、暗闇の中で情熱的に着衣を脱ぎながら、安定を欠いたままのスリリングな恋愛に身を委ねた経験が、わたしたちにもあるのではなかったか、というあの驚愕が。安藤朋子が示してみせるトートロジカルな身振り、それは本来あるべき人間のイメージを奇怪なかたちに歪めつつ、同時にわたしたちの存在のあらわれを捉えては逆照射する。まるでひび割れた鏡の複雑なきらめきのように。「あたしたちは、かれらが人生と呼んでいる、このごたごたして、あてもなくもがいているものの象徴なのよ。しかも真実なのはただ象徴だけだわ。」(W・S・モーム『劇場』)。〈観客〉という奇妙に逆転した演劇的存在へとわたしたちを導いてゆく女優という存在――ARICAはそのことにひときわ自覚的である。客席=無意識化に埋もれた舞台では、ライトが消されてあって、暗闇だ。マナー・モードさえ禁じられた無名性の奥底、そこにわたしたちの存在はある。そしてそこでは、女優の不器用を笑うことしか、わたしたちには赦されていない。 ところで「LOVE GAME LOVE」というタイトルの狂った調子には、なにか仕掛けがあるのだろうか。まん中に「GAME」を据えることで生まれるはぐらかしの構造のために宙吊りになったふたつの「LOVE」は、いったい何に対する恋慕なのか。さらに言うならば、およそ一時間足らずの演劇のあいだ、女優は何に躓き、何に疲弊し、何に悶えていたのだったか。「LOVE」とは何だろうか。「GAME」なのだろうか。悪童の心と哲学的嗜好とが入り交じったのがARICAであるから(少なくともわたしはそう思っている)、いくら思慮深くなってみたところで明快な答えは得られないのかもしれない。そういうときは、たとえば、そっと開かれた窓から吹きこんでくる微風に、わたしは答えを探す。言葉や肉体の牢獄からわたしたちの思念をさらって外部空間へと誘ってくれる、幽かな、しかし馥郁とした風の気配――それは演劇の、演劇外の未知へ向かっての、美しい開かれでもある。「Eureka!(わかった!)」と叫んで飛び上がったアルキメデス的な知のあり方を、独特のユーモアと狡智でもってわたしたちから奪ってゆく彼ら/彼女らが、窓を開けるという作業を思いついたのは、今回が初めてではなかったろうか。解き放たれた窓の向こうにあって、暗闇のなかに沈むわたしたちの孤独な影を照らした街灯の光。それはわたしたちを演劇以前の祝祭的な時代に引き戻すかのような、ふしぎなやわらかさを秘めていた。「GAME」から飛躍したレヴェルで「LOVE」について囁くためにはどうすればよいか。安藤朋子は、そしてARICAは、そういうことを言おうとしていたのかもしれない、ただしいつものように、饒舌に過ぎるほどの寡黙さでもって。