「徐々に揺れが収まる中で」

新野守広(「シアターアーツ」50号掲載)より

最後に古典の現代化という観点から、ARICA公演『恋は闇LOVE IS BLIND』(演出=藤田康城、テクスト・コンセプト=倉石信乃、作曲・演奏=イトケン・猿山修・高橋永二郎、イワト劇場、2月9日)に触れたい。
 毎回ARICAの公演では装置や小道具が重要な役割を果たすが、今回の公演では、十文字に組まれた平均台のような装置に驚かされた。床からひざの高さ程度に幅20cmほどの細長い板が二本置かれていたのである。一本は舞台奥から客席に向けてまっすぐに置かれ、もう一本は客席最前列のすぐ前を真横に横切っている。二本は舞台中央で直角に交わって十字路をなしている。最初の板の一番舞台よりには椅子が一脚置かれている。板の真上の天井部分には、倉庫で見かけるような滑車を走らす頑丈なレールが取り付けられている。さらに天井からは薬缶、鳥籠、旧式の電話機、ペットボトル、植木鉢、人形のオウムなどのがらくたが所狭しと吊り下げられている。これらのがらくた類にはやはりロープがついており、その端は舞台下手の小さなボックスに引かれ、中にスタッフが隠れている。上手と下手の奥に演奏者が入る空間があり、これで狭い舞台はほぼ一杯だ。 パフォーマーである安藤朋子は、狭い板の上で演技する。開演後、彼女は客席に向かう板の上に置かれた椅子の上に座る。だぼだぼの赤いローブ風の衣装を着た彼女の体は、数本のロープを通して天井のレールにつながっている。彼女は慎重にバランスをとりながら、自分を吊るロープを自ら操って、客席に向かって板の上を進む。いわば糸操り人形役を演ずる役者が自ら糸を操って動くようなものだ。
 当日配布のチラシによると、この公演のベースには近松門左衛門の『曽根崎心中』があり、それをもとに倉石信乃がテクストとコンセプトを作り、演出家とパフォーマーに託したようだ。狭い板の上での演技やロープを使う制約は、近松が心中物で描いた町人世界の息苦しさや、自立性を奪われた女性の苦しみなどを連想させる。続いて安藤は空のスピーカーボックスをかぶり、ライブ演奏に合わせて絶叫調で歌う。その後はしばらく録音された浄瑠璃がかすかに聞こえてくるだけだが、この間安藤は狭い板の上に椅子を置くとその上に立ち、赤い衣装を脱ぎ、下に着こんでいた白いドレス風の衣装となるや、短刀でロープを切断して自由の身になる。まるで近松の苦しい道行の世界から身を切り離して、現代に飛び出したかのようだ。  ロープから自由になった彼女は、しばらく横方向の板の上を行きつ戻りつした後、「あの世の地獄に堕ちるまで/この世の地獄のなかでも/しゃべるしゃぶる・・・」(当日配布チラシにテクストが印刷されている)とつぶやきながら舞台奥に板の上を歩いて去る。途中、緑色のロープを引くとすべてのがらくたが天井から落下したり、人形のオウムが話し出したりというように、ユーモアの感覚が尽きないが、終幕では恋という地獄へ堕ちる人間の姿が示される。束縛からの解放と個人の孤立という近代化の物語を感じさせた。
 もう一点興味深かったのは、作り手の側が「この公演には失敗がない」(佐々木敦とのアフター・パフォーマンス・トークで藤田康城が語った言葉)と考えていたことだった。なにをどのように演技するか、だいたいの枠組みは決まっているが、狭い板の上で何本ものロープに体重を任せながら演技するため、途中で板から落下したり、予定していた小道具が取れなかったり、などというアクシデントは避けられない。だから舞台で起こるあらゆる事態が、アクシデントも含めてそのまま本番なのであり、失敗はありえないというのだ。
 現実の社会生活では「失敗がない」行為はない。ミスを犯せば応分の責任を取るのが、社会生活の大原則である。だから「失敗がない」舞台は芸術的ユートピアであるしかないのだが、私には今回の舞台が現実生活からかけ離れているとはとても思えなかった。もし昨年の震災が起こる前にこのパフォーマンスを見たら、「ポストドラマ演劇」に類別される非テクスト演劇の一種として、その遊戯性を知的に理解するにとどまったかもしれない。しかし今回、安藤朋子が不安定な狭い板の上で小道具や装置を駆使して懸命に動く様子を見ながら、細かい神経を込めて作業を行う行為の現実に心を打たれた。心中物の人形浄瑠璃から出発したこのパフォーマンスは、私たちの日常にしっかりと軟着陸したのである。