身体があること、出会うこと 〜アリカ『キオスク』(国際芸術ミーティング in 横浜)柴田隆子(「シアターアーツ」65号 2021春  より)

アリカ『キオスク』/ARICA『KIOSK』

身体を伴った舞台に「出会う」例として、二〇二〇年のTPAMフリンジ作品シアターカンパニーARICA(アリカ)の『KIOSK(キオスク)』をとりあげたい。東京芸術見本市時代からの常連であるアリカは、演出家の藤田康城、詩人・批評家の倉石信乃、アクターの安藤朋子が中心となり、二〇〇一年から活動しており、海外のフェスティバル関係者にもよく知られたカンパニーである。『KIOSK』は、二〇〇六年の第7回フィジカルシアターフェスティバル参加作品『PAYDAY』(江古田ストアハウス)をもとに、同年十二月に出演者に鉄割アルバトロスケットの戌井昭人、奥村勲に前田真里を加え、BankART 1929 Studio NYKで上演されている。その後、出演者を安藤朋子一人に戻し、二〇〇八年に東京芸術見本市ショーケース、ニューヨーク・バージョン、『キオスク リストラ』(中野テレプシコール)、二〇一〇年のニューデリー・バージョンなどを経て、みなとみらい線新高島駅構内地下1階にあるBankART Stationでの公演が行われた。

 タイトルにあるように、駅の売店「キオスク」での労働がテーマである。駅構内あるとはいえ、うちっぱなしのコンクリートの壁に、配管パイプが剥き出しになっているパフォーマンス会場。段ボールがいくつか、天井から吊られ揺れている。正面に駅のホームの白黒映像、「NEWDAYS」と「キオスク」の文字が並ぶ。映像に映り込む人物が、ゆっくりと動き出す。ふと側面の壁を見ると、飲物やパンなどの陳列の映像も見える。モノクロ映像に導かれるように、記憶の中のキオスクが映像に重なる。タバコや新聞や週刊誌を買い求めるサラリーマン、瞬時につり銭を渡すおばちゃん。そうそう、キオスクの売店にいるのは、いつもちょっと強面のやり手のおばちゃんだった。当時のざわめきを想い出しながら見ていると、映像の動きが速くなり、色がつきはじめる。バタンッと大きな音と共に映像が映っていた板が倒れ、平台となり、段ボールの山に囲まれた年季の入ったキオスクのおばちゃん(安藤朋子)が、ねじり鉢巻ならぬ、赤いロープを腰に巻いた姿で座っている。

ロープの端を平台の両端に固定させたこの売り子のおばちゃんは、回転椅子に座ったまま移動しながら、複数の作業をこなしていく。両脇の天井から吊るされた大きなポリタンクからペットボトルに水を詰め、コンプレッサーで飛び出すキャップをキャッチして蓋を閉め、新聞の束をほどき、今は懐かしトーテム状にしてスタンドに立てる。力強く動き回る彼女だが、その生産性は低く、満水を知らせるブザー音に作業を中断するかいちいち悩み、真剣そのものの態度で、キャップのキャッチに挑むものの、二つに一つは取り落とす。それでも小さな達成感に「よし」と自分を認め、ご満悦の笑顔を見せる。その姿はエネルギーの塊のようだ。積み上げられた段ボールを棹で下ろして開くと出てくる、空のペットボトルの束また束。延々と続く水詰め作業の予感に、見ている方が溜息を禁じえないが、彼女はめげることなく平台に向かう。

開店前の準備なのか、少しでも客にストレスなく買ってもらうために、少しでも時間効率よくさばくために、新聞の巻き方ひとつにもこだわり、自信をもって自分の仕事に取り組んでいるように見える。そう、かつてはこうした単純作業ともいえる労働を、丁寧に準備していた人たちがいたのだ。いまや電子媒体のニュース配信で、紙の新聞をキオスクのスタンドで買う人などほとんどいないが、かつてキオスクは、電車が発車するまでのわずかな間に新聞やタバコを買い求める客を次々とさばく熟練売り子の手業の妙技が展開する場所でもあった。彼らはベテランという言葉が似合う人たちだった。軽業師よろしく、段ボールに竿をひっかけ、掛け声も勇ましく荷下ろしし、ロープと戯れる舞台上のキオスクのおばちゃんの姿に、そうした彼らの影を重ねて見る。

 だが、安藤朋子が演じるこの店員は、キオスクで働いているものの、女綱渡りとして生まれたのだという。類い稀な身体能力をもって生まれ、危険と隣り合わせで芸を見せることで育ってきたのに、今やそのロープを安全帯のように身体にまとわせ、いつ果てるともない単純作業に従事しているのだ。稼ぎは現金から給与振込に変わった。客の姿も見えない。いつ来るかわからぬ客のため、彼女は元気に動き回り、やがて疲れてうつ伏せ、気を取り直してまた働く。ここに描かれているのは、私たちの、あったかもしれない姿と今ある姿だ。溢れんばかりの身体エネルギーを見せる彼女は、効率重視の現代社会にはそぐわないようにも見える。その彼女も照明がだんだんと落ちていく終盤では硬い表情で立ち尽くしたままとなる。かつては私たちも持っていたかもしれないそのエネルギーは、この先も続く単調な日々の中で徐々に失われていくのだと、そんな風に感じてしまうエンディングであった。

KIOSKの今、私たちの今

「世界中どこにでもあるKIOSKだが」と、十二年前の『キオスク・リストラ』のイベント概要の冒頭にはあったが、少なくとも日本ではもはやキオスクは「どこにでもある」とは言えない。かつてどこの駅のホームにもあった、いわゆる「キオスク」はほぼ姿を消した。いくつか残っている店舗でも、安藤が演じたようなエネルギッシュな身体性を感じさせるおばちゃんはおらず、妙技でもあった釣り銭渡しもない。現金のやりとりすらほぼなく、今やICカードによる電子決済である。この便利な電子決済は売り子も必要とせず、駅構内のコンビニ系列キオスクでは無人決済すらある。エネルギーを持つ人がいなくなり、さらに身体そのものが存在しなくなっている。身体のエネルギーを感じる場が、機会がどんどんなくなっている。駅には変わらずたくさんの人がいる。だがそれは物体、ないし障害物にすぎず、人として「出会う」ことは、ほぼない。それゆえ、舞台での「キオスク」が魅力的に映る。満水を告げる警報音にしばしば中断されながらも、車輪付きの椅子に座りロープで楽しく遊ぶ姿に、真面目な顔でペットボトルを並べる姿に、生きた人間の姿を見出し、その力強い身体に魅了されてしまうのだ。

二〇二〇年二月から三月にかけて、予定していたイベントや公演が次々に中止になっていき、コロナ感染拡大防止のため、「STAY HOME」と「不要不急」の外出自粛が求められた。そこからは少なくとも私の周りは、雪崩を打つようにオンライン生活に入っていった。日常がオンライン化すればするほど、出来事の共有の可能性は広がったかのように言説化されたが、心には刻まれることはなく、人そのものと会うことはますます難しくなっていった。会議が始まる前の雑談、教室での友人らとおしゃべり、ちょっとした挨拶、こうしたコミュニケーションのあわいのようなものが、オンライン生活ではなくなっていった。家族以外の人と会うことがなくなり、慣れないオンラインでの業務をこなすことに時間をとられ、家族とも話をする時間はなくなっていった。こうした日常が、どこかアリカ『キオスク』に描かれた世界とリンクしているようで、人と出会えなくなるほどに、この作品が想い出された。

私たちは物理的な身体を介在させることなく、人と「出会う」ことは可能なのだろうか。キオスクがなくなり、小銭のやりとりもなくなり、オンライン化が進む。人とまったく接せずとも生活できるかのような錯覚を覚えるコロナ禍の状況にあって、「人と会う」ことの意味をしばしば考える。本稿での公演に関する記述は、観劇直後に身体の中に観劇の記憶が残っているうちに言葉として書き留めたものである。この文章を書くにあたって、公演映像も見た。実際に観劇した日のものではなくとも、舞台を観た時の自分の身体感覚は映像をみることで蘇る。言葉や映像を見ることで、かつて体験した身体感覚が思い出せるのは、そこに強い「出会い」があったからである。「女綱渡り」がどんな身体を持っているかなどは知るよしもなく、ただ想像するだけだ。だが、そうした生まれ育ちをした人物として見ることで、舞台上にある大きな身体エネルギーをもつ安藤朋子の身体に投影され、女綱渡りとして生まれ育った店員に出会うことができた。たとえそれは観客としての一方通行のものであったとしても、稀有な「出会い」の体験といってよいだろう。

 キオスクがかつてのようにホームでの有人販売に戻って欲しいと思っているわけではない。現在のコンビニ系キオスクの品揃えは豊かで、タバコや新聞を買い求める客で殺到することもなく、電子決済でスマートに買い物ができる方がよいに決まっている。だが、アリカの舞台にあったような、女綱渡り育ちのキオスクのおばちゃんには、出会いたい。日常世界ではもう会えないかもしれない、しっかりした身体の輪郭のあるおばちゃんに。こちらもパソコンの前ではなく、自分の身体を同じ場所に置きながら、人の気配を感じながら、ゆるく出会いたい。