「束縛された身体のあいだに」

内野儀(「芸術新潮」2006年12月号)

 フィジカル・シアターというジャンルがある。物語を語る形式としての演劇でも、振り付けられた動きを中心とするダンスでもなく、演劇的ダンス/ダンス的演劇といおうか、演劇とダンスの「あいだ」にある領域のパフォーマンスである。「あいだ」だけに、中途半端だと目も当てられなくなるが、「あいだ」が徹底して考えられると、思いがけない地平が切り開かれる可能性がある。
 「演劇を素直にやっている方が楽だ」というわけでもあるまいが、日本にはそうした「あいだ」を目指す集団がほとんどなくなってしまった。そんな中、2001年に創設されたARICAという集団の上演はフィジカル・シアターとしか呼びようがなく、参加メンバーのコラボレーションを創作理念のコアとする稀有な存在である。メンバーは演出・美術の藤田康城、詩人の倉石信乃、俳優の安藤朋子、音楽(エレクトリック・ベース)の猿山修など、それぞれの分野で既に実績があるアーティストたち。創設以来、クラブから使われなくなった地方の工場まで、多様な空間で上演を展開してきたが、昨年はエジプトのカイロ国際実験演劇祭に招聘され、安藤がベスト・ソロ・パフォーマンス賞を受賞した。
 ARICAの作品には主題的一貫性がある。彼ら/彼女たちは、特定の社会関係に置かれた「女性の身体」がどう振る舞うか/振る舞わされるかという政治的な問いを生じさせる上演を、美学的(=劇場的)枠組みの中で成立させようと試みるのである。つまり、「女性の労働」をどう上演するかということ。今回の『PAYDAY ペイデイ』では、ロープに束縛された女性であると同時に、駅のキヨスクで新聞やペットボトルを売る女性の「労働する身体」がその主題となっていた。
 舞台背後に段ボール箱が四つに積み重ねられてあり、前方には四台のカウンター。背後に移動可能な丸椅子に座り、ロープにもつながれた安藤の姿が見える。「ペイデイ」とだけ発語した彼女は、丸椅子に座ったまま、カウンターにハタキをかけ、以降、時々ぶつぶつとつぶやきながら、単純な作業を繰り返す。舞台両端に大型の水タンクをつるし、そこから垂れてくる水を空のペットボトルで受け、一つがいっぱいになると別のに置き換えるという単純労働である。また彼女は、新聞の束をほどいて丸めてカウンターにたてたり、背後の段ボール箱からさらにペットボトルの束を持ってきて、カウンターに並べたりもする。
 重要なのは、彼女の身体が丸椅子に座ったままでロープにも繋がれているという二重の束縛状態にあることだろう。猿山の音楽は単純労働の愉悦と苦痛を同時に語り、安藤の口から時々発せられる倉石の散文的詩句は、無言な労働者を雄弁な労働者へと短時間だけ変質させる。安藤の身体は、決してアウラを放ったりせず、淡々と作業をこなし、途中、いろいろなアクシデントに見舞われながら(それが起きるような設定にそもそもこの上演はなっている)、憮然とした表情を胚胎したり、硬直したり弛緩したりを自在に繰り返す。  確かに私たちの身体は、隅々まで管理されてがんじがらめである。そしてそれを抑圧とすら感じることができないとするなら、どうすればよいのか? この舞台はこうして、現在的身体管理の有り様をめぐる問いを生じさせる。と同時に、管理にはアクシデントがつきものであり、アクシデントの間隙をぬって、予想外に多様な表情を私たちの身体が身に纏ってしまうという、ささやかなしかし根源的な「自由」の可能性にも言及するのである。